ツール・ド・フランスを知るための100の入り口
ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:新聞の売り上げ
ツールは、新聞紙『ロト』により創造・開催された。しかし、新聞社と自転車レースのタイアップ、というビジネスモデルは、『ロト』のオリジナル・アイディアではなかった。
1891年に始まったパリ~ブレスト~パリの実行委員は、日刊紙『ル・プティ・ジョルナル』だったし、やはり1891年スタートのボルドー~パリレースも、上記日刊紙と同系列のスポーツ紙『ル・ヴェロ』が主催した。つまり、ツールは完全に後発だったのだ。
『ロト』の前身となるスポーツ紙『ロト・ヴェロ』(『ロト』への改名は1903年)の創立は1900年。さっそく追いつけ追い越せで、ロードレースを躍起になって取り込もうとするのだが、実は当初、彼らはライバル社の真似事ばかりしていた。
1902年には、『ロト・ヴェロ』が、『ル・ヴェロ』のレース、ボルドー~パリの完全コピー版を開催したものだから、前者主催のボルドー~パリ第1回大会と、後者主催の第12回大会の2つが同一年に催されるという顛末だった。両者はまったく同じ行程・規則のもと行われ、出場者のみが唯一異なっていた。
強すぎる敵愾心(てきがいしん)が混乱を招いた悪しき例と言えるだろう。さすがにパクリばかりではバツが悪かったとみえ、『ロト・ヴェロ』は、同年オリジナルレースとして、800キロのマルセイユ~パリを主催した。
成功裏に幕を閉じたものの、発行部数はそれでもやっと2~3万部。ライバル紙の8万部というのは、途方もない数字だった。
そんな中、『ロト・ヴェロ』から『ロト』へと改名された1903年、捨て身の一発として打ち上げられたのが、ツールというワケだ。すると、たちまちのうちに、予想以上の効果を目の当たりにする。
大会開始とともに、新聞の売り上げは一挙に2~3万部から6万部超へ。開始10年後には圧巻の32万部を達成。第一次世界大戦で部数は激減するものの、1930年代には再び30万部の大台に乗せた。
当時テレビはまだなく、人々は新聞を買わなければ、首位の選手の名前すらわからなかった。レースがヒットさえすれば、安直に部数急伸が狙える時代だったのだ。
※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。
写真:Agence Rol[Public domain],via Wikimedia Commons / 1936年の『ロト』紙