ツール・ド・フランスを知るための100の入り口
ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:土地の記憶
[写真1]2003パリ〜ニースを制し表彰台でキヴィレフの写真を掲げるアレクサンドル・ヴィノクロフ
[写真2]ドライジーネ
毎年ツールのルートが公表されると、必ず「初登場の町」が紹介される。走破する町に対する思い入れの表れだ。どの土地も、単に素通りだけでなく、思い出を残し、記憶を呼び覚ます場所となる。思い返せばこれまでさまざまな道のりを歩んできた。
2005年、第20区間、サンテティエンヌのタイムトライアルでは、故アンドレイ・キヴィレフが想起された。彼がフランスに移住して、下積み時代に居を構えたのがこの地だった。クラブチームEC サンテティエンヌ・ロワールに在籍し、その後プロ入り。2001年ツールでは総合4位までのぼりつめる。
しかし2003年のパリ~ニース。サンテティエンヌのゴールに向かう途中、落車で頭を強打した。地元の病院からサンテティエンヌの病院へ移送されたあと、残念ながら息を引き取った。
事故の後、中心部のロータリーはキヴィレフのロータリーと名付けられ、2005年ツールのスタート地点に選ばれたのだった。
同じく2005年、ドイツのカールスルーエのステージは、自転車の祖先にあたる乗り物の発祥地として、一部マニアの間で注目を浴びた。
この地出身の発明家カール・ドライスが1817年に発明したのは、ドライジーネなる乗り物。ボディは木製で2つの車輪がある。ただ、ペダルがなくて、足で地面を蹴って前進する。
ドライスは自転車の登場を見ることなく、1851年に亡くなるが、自身の発明品が進化・流行し、それを用いた一大スポーツイベントで彼の功績がしのばれるなどとは、予想だにしなかっただろう。
特定の土地が特定の選手に思い出を与えたのは、2004年第8ステージ。スタート地点ランバルでは、町の助役からジョゼ・アセヴェドに260㎏、16ヶ月の郵便用雌馬が渡された。
ランバルとポルトガルのオリベイラ・ド・バイロは、姉妹都市。それを記念して、ポルトガルからただ一人出場していたアセヴェドに贈り物が用意されたというわけだ。ただし、大会終了後、この馬がアセヴェドとともにフランスを出国したのかどうか、誰も知らない。
さらに初期のツールでは、土地にちなんだ史実が盛んに掘り起こされた。オルレアンに差し掛かれば、ジャンヌ・ダルクの雄姿に一行の姿が投影され、テュイルリー公園では、フランス革命のさなかこの場所に王宮が戻った事実を参照し、凱旋ムードを盛り上げた。
ツールは勝負一辺倒ではない。地理や歴史も拾っていく。フランスのエスプリを漂わせつつ。
※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。
[ドライジーネ写真] By Lokilech (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC-BY-SA-2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons