ツール・ド・フランスを知るための100の入り口
ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:最終日の闘い方
シャンゼリゼ大通りを駆け抜ける最終日は、ある意味「儀式」になっている。暗黙の掟により、総合首位の選手を出し抜くアタックは仕掛けない。勝負は前日に決まった、というスタンスだ。だから最後の日には、マイヨ・ジョーヌの選手がのんびりと走行中にシャンパングラスを傾ける、そんなシーンが登場することになる。
こんな慣習がクリエイトされたのは、シャンゼリゼというセッティングの優雅な雰囲気にも起因するかもしれない。いかにもセコいアタックは似つかわしくない。しかし1975年、初めて最終日の舞台がヴァンセンヌからシャンゼリゼへと移行したときは、その限りではなかった。首位ベルナール・テヴネとの差を巻き返すため、2位エディ・メルクスは、猛烈なアタック攻撃に出る。しかし平坦なこのコースでは、しょせん大差はつきにくく、あえなく撃沈した。
1977年には最終日が2つに分割され、最初に6㎞のタイムトライアル、その後91㎞の一斉スタートだった。そのため、タイムトライアルで勝負あり!、というムードが広がった可能性はある。最後のシャンゼリゼは儀式走行、そんな空気が形成され、やがて不文律となる。
その後ただ一度だけ、大会主催者側の目論見により、そんな掟が破られたことがある。1972年以来となる最終日タイムトライアルが採用された1989年のことだ。距離は24km。首位ローラン・フィニヨンと2位グレッグ・レモンの差は50秒。世紀の一騎打ちとなった最終日、レモンは58秒フィニヨンを上回り、8秒という僅差で大逆転の総合優勝者となったのだった。
レモンは、最終日に逆転優勝を遂げた3人目の選手となり(1947年にジャン・ロビックがピエール・ブランビッラとの2分58秒差をひっくり返して優勝、1968年にヤン・ヤンセンがヘルマン・ヴァン・スプリンゲルを打ち負かし16秒差を覆して優勝したのに続く)、さらに、シャンゼリゼでそれをなし得た最初の人となった。
しかしそれ以来、閉幕日のタイムトライアルは封印され、シャンゼリゼは穏やかに選手たちを迎え入れる場に回帰した。過激なドラマは最終日前日までの特権となり、閉幕日は戦場ではなくなった。達成感に包まれた選手たちが、パリに帰還したことを群衆に知らせる晴れやかな1日。凱旋門へと続く大通りには、し烈なバトルより、そんな行進の方がよく似合う。
※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。