ツール・ド・フランスを知るための100の入り口

ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:囚人に例えられた選手たち



1924年、『ル・プティ・パリジャン』紙の記者としてツール・ド・フランスを取材していたアルベール・ロンドルは、あるスキャンダルに遭遇する。前年優勝者のアンリ・ペリシエが主催者に抗議し、弟のフランシスやアシストのモーリス・ヴィルとともにレースをボイコットしたのだ。

すべては、1枚のジャージに端を発する。当時の規定では、レース開始時に所持していたものは機材・ウエアに関わらず、すべてゴールまで欠けることなく携えていることが必須だった。

しかしアンリは重ね着をしていたジャージの1枚を、途中道端に放置したと疑われていた。この行為は、1920年に制定された規定第48条により禁止されていた。

すったもんだの挙句、高圧的な理不尽に嫌気がさしたアンリは、途中でレースを棄権した。クタンスの駅で彼らを待ち受けていたのが、ロンドルだった。

不平不満をぶちまける機会を得た3選手は、インタビューでツールの非人間性を雄弁に語った。がんじがらめの規則に縛られ自由を奪われた選手の話に衝撃を受けたロンドルが執筆した記事のタイトルは、「ロードの徒刑囚」。

ツールを「受難」と弾劾し、コカインなど薬物を使用して走らざるを得なかった、などという選手の談話が挿入されているのだが、すべてそのまま鵜呑みにはできない。

ペリシエ兄弟たちは、ツールのスペシャリストではなかったロンドルを甘く見て、主催者たちを見返してやるつもりで大げさにしゃべったらしいのだ。

「ロードの徒刑囚」は、記事としては誇張があったものの、この表現自体は定番となる。レポートは1冊の本にまとめられ、つけられた書名は「ツール・ド・フランス、ツール・ド・スフランス」。スフランス(SOUFFRANCE)とは苦痛の意味だ。

ツールの厳しさを掛詞で表したこの絶妙な言い回しもまた、マスコミを中心に広く引用されるようになる。

従軍記者でもあったロンドルは正義感が強く、社会的弱者には人一倍敏感だった。フランス領ギアナにあるカイエンヌの監獄を数ヶ月間取材し、1923年には、非人間的な扱いを切々と訴えたルポルタージュを発表している。

そんな監獄取材の経験から、選手を無慈悲の犠牲者としてとらえ、「囚人」と表したのは、ごく自然な流れであった。

蛇足ながら、カイエンヌ取材の前年には、アジアへも赴き、数々のエッセーを出している。実は来日経験もあり、日本に関する記述もある。彼が我々の国を評するのに選んだ形容詞は、「摩訶不思議」だった。

ロンドルは厳しい世界に自ら身を置き、衝撃的な文章を発表し続けた。ただし、ツールというテーマに関しては、それ以上探究することはなく、単発的な発言者にとどまった。

※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。

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