ツール・ド・フランスを知るための100の入り口
ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:ライバル紙編集者の功績
パリ~ブレスト~パリなどの自転車レースをいち早く手掛けた日刊紙『ル・プティ・ジョルナル』の編集長兼スポーツ紙『ル・ヴェロ』の編集者ピエール・ジファールは、自転車の普及に尽くした人だった。
そんな彼の背中を追いかけて、ライバル紙『ロト』の編集長アンリ・デグランジュは、ツール・ド・フランスの着想を得たわけだ。
■ピエール・ジファール
ツールは1903年の第1回大会で瞬く間に大成功を収め、『ロト』は驚異の売り上げを記録。片や『ル・ヴェロ』は一気に凋落の道を辿った末、1904年11月、あっけなく廃刊となった。
ツールを世に送り出して以来、主催者デグランジュは30年以上にわたりこの真夏の一大イベントの発展に寄与した。一方、浮き沈みを経験したジファールが、失意の敗北者なのかというとそうでもない。自転車レースを決して偏狭な思想でとらえる人ではなかった。
彼が編集長を務めていた『ル・プティ・ジョルナル』には、「ツールは大きな成功と反響をもたらしたと同時に、その重要度においても高い評価を得た」という記事を掲載するなど、敵陣営のレースをも、正当に評価していた。
加えて彼は、現代に通じるある2つの大きな功績を残している。まずは、自転車のニックネームである『小さな女王(ラ・プティット・レンヌ)』という言葉。ジファールの著作「ラ・レンヌ(女王)ビシクレット(自転車)」が下敷きだ。
■パリブレスト
2つ目は、パリブレストという名のケーキ。これは、1910年、ジファールが近所の菓子職人に特注したケーキが発端だ。
かたちは中央をくりぬいたドーナツ型。自転車の車輪のかたちで、というジファールの依頼を実現させた。
注文主がパリ~ブレスト~パリレースの創始者であったこと、居住地メゾン=ラフィットが同レースのコース上にある街であったことから、このオリジナルケーキは、以降パリブレストと呼ばれるようになったのである。
20世紀前半、ロードレース開催をめぐって火花を散らしたデグランジュとジファール。ともに自転車にまつわる歴史の中に、きらめく実績を残したのだった。
※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。
[Photo]
ジファール:By Damienchemille (投稿者自身による作品) [CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons
パリ・ブレスト:By Dainee Ranaweera (Flickr: St Petrocs Hotel - Paris Brest) [CC-BY-SA-2.0], via Wikimedia Commons