ツール・ド・フランスを知るための100の入り口
ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:発展の理由2-コース作りの柔軟性
19世紀後半、ロンドンで室内自転車競技が行われるや、6日間レースなどが熱狂的なファンに支持される。
作家アーネスト・ヘミングウェイは作品『移動祝祭日』の中で、競技場ヴェロドローム・ディヴェールの独特の雰囲気を文章にしたいと語っている。木製のバンクがきしむ音や、バンクをアップダウンするその様子などが、彼を夢中にさせていたことがうかがわれる。
そうした熱気は米国でもコピーされ、マディソンスクエアガーデンで、トラックレースが開催されるようになる。2人一組(もしくは3人)で争うポイントレースが「マディソン」と呼ばれるのは、その名残りだ。この競技、ラテン系の国へ行くと、もっと大胆に「アメリケーヌ」、「アメリカーナ」などと呼ばれている。
このように競技場で行われたものが“定住型”レースであるのに対し、道路や小道を利用したロードレースは、“移動型”レースということになる。とはいえ、揺籃期のロードレースは、競技場レースの既成概念を引きずった結果、“定住型”レースからスタートする。
つまり、自由にコースを毎年変えてもよさそうなのに、いつも同じ場所、の繰り返し。それは公園内の一定区間であったり、固定した2ヶ所を結ぶレースであったり。
6都市を結んで1903年に初開催ツールでさえ、複数の土地を結ぶ点では斬新だったものの、最初の2大会は、同一ルートで行われた。距離もしたがって2430㎞程度と、ほとんど同じだったのだ。
その殻を打破しようという動きが始まったのは、第3回大会から。試しに前年より細切れにして、11都市を結んでみた。
すると、主催者もビックリするような人気を博す。土地に変化をつけることにより、観客の想像力が掻き立てられ、無限の可能性を秘めている予感をもたらしたのだ。
これに味をしめた主催者は、さらなる大々的なブームを巻き起こそうと画策する。訪れる空間はどんどん広がり、形骸化することなく、絶え間なく進化し続けた。
きわめて初期の段階で、フレキシブルな進路を選んだことは、ツールのその後の発展に大きく寄与したのだった。
※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。