ツール・ド・フランスを知るための100の入り口
ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:優勝者たちのその後
[写真]故郷チェゼナティコに建てられたパンターニの墓所
世界最高峰の自転車レースで優勝し、栄誉に浴した選手たちの引退後は、ときに物悲しい。たとえば、血気盛んなアンリ・ペリシエ(1923年優勝)。衝突が絶えず友人たちは去っていき、冷え切った関係の果てに妻は拳銃自殺。同居を始めた愛人と喧嘩となり、妻が自殺したそのピストルで、射殺される。
翌年優勝者のオッターヴィオ・ボッテッキア(1924・25年)の場合は、あるとき道端で、頭がい骨にひびが入った状態で死亡しているのが発見された。殺人説も信ぴょう性は薄く、迷宮入りとなる。その後、兄のジョヴァンニも同じ道端で死亡した。
ほかにも、アフリカ滞在中にマラリアで帰らぬ人となったファウスト・コッピ(1949・52年)や、クルマで暴走事故をおこし、4日後に39歳で絶命したウーゴ・コブレット(1951年)など。最初の50年間の優勝者には、なぜか、非業の死を遂げた人が目立つ。
しかし51年目の優勝者は、落車のケガがもとで不本意な引退をした後、ビジネスで起死回生の一発逆転を遂げた。彼の名は、ルイゾン・ボベ(1953・54・55年)。ブルターニュ地方初の近代的な海洋療法・タラソテラピー店のパートナーとなり、それが大ヒット。キブロンにある一号店が繁盛すると、ビアリッツ、スペイン・マルベーヤにも店舗を拡大。海の資源を活用したこの癒し療法に着目したことがビジネス参画のキッカケだというが、現役時代から革新的なマッサージ手法に敏感だったボベらしい。
5勝クラブのメンバーはというと、自らの自転車工房をもち、悠々自適のエディ・メルクス(1969・70・71・72・74年)。ツールの渉外担当・自転車界の重鎮として、存在感の衰えないベルナール・イノー(1978・79・81・82・85年)。そして、彼らに比べて露出度は少ないミゲル・インドゥライン(1991・92・93・94・95年)は、農場の仕事の合間に講演会などを行っている。
90年代以降の優勝者の中で、唯一の物故者は、コカイン急性中毒で急死したマルコ・パンターニ(1998年)。うらぶれた宿の一室で、死亡しているのが発見された。ジロとツールのダブル制覇という絶頂期の翌年、血液検査の結果、総合優勝に王手をかけていたジロを追放となる。以来精神的に立ち直れぬまま天へと旅立った。
しかし彼のストーリーには、エピローグがある。故郷チェゼナティコに立派な墓所が造られたのだ。斬新なフォルムが特徴で、天井の明り取りやステンドグラスから差す日差しに照らされ、暗さはみじんもない。世界中から訪れるファンからの花束、似顔絵、記念品などに囲まれて、表彰台に見立てた台におかれた彫像のパンターニは満足げ。パンターニがいかに人々から愛されていたかをまざまざと実感する。
成功の頂点に立ち、挫折し暗黒に放り投げられたものの、彼が眠るその場所には愛が満ちていた。ある種のハッピーエンドのようにも思える。しかし同時に残念でならない。これほどまでに愛されていることに彼が気づいてさえいれば、死は回避できたのではないか、と。
※本企画は2013年6月に実施されたものです。現在と情報が異なる場合がございますが、予めご了承ください。