10日の日韓戦とU-22エジプト戦(ともに札幌)のメンバー発表会見のため、JFAハウスに向かっていた4日の13時20分頃、松本山雅の越後有希広報から携帯に着信があった。嫌な予感がした。すぐ切れてしまったのでかけなおすと、「松田直樹が1時6分に亡くなりました」という涙声が耳に飛び込んできた。2日前に急性心筋梗塞で倒れたというニュースを聞いて以来、ずっと回復を祈っていたが、悪夢はついに現実のものとなってしまった……。

我々メディアは松田直樹という選手をつねにトップレベルの舞台で見続けてきた。日本で開催された93年U-17世界選手権の頃は私自身、まだサッカー取材者ではなかったが、彼の存在は当時から有名だった。前橋育英高校の山田耕介監督も「球際が強く、ボールを跳ね返せる。走るストライドも大きくて速い。『これが世界に通じる選手か』と強烈なインパクトを受けました」と語っていたが、頭抜けた身体能力は誰もが認めるところだった。

その後、95年に横浜マリノス(当時)に入団してからは世界の舞台を駆け上がった、95年ワールドユース(カタール)ではブラジルにあと一歩と迫ったチームの守備の要として奔走。96年アトランタ五輪ではのちにレアル・マドリードで活躍することになるブラジルFWサビオを徹底的にマーク。マイアミの奇跡の立役者となった。日本が世界への扉をこじ開ける時、いつも彼はピッチに立っていた。

98年にトルシエが監督に就任した後はさらなる飛躍を見せた。「トルシエジャパンには途中から入って、宮本(恒靖=神戸)や森岡(隆三=京都コーチ)はフラット3の上げ下げがスムーズにできるんだけど、松田はできない。トルシエに怒られながら黙々と絶えて練習し、最終的にはレギュラーをつかんだ」と日本サッカー協会の田嶋幸三副会長もしみじみ語っていたが、やはり私にとってもこの頃の彼が一番記憶に残っている。

松田は当初、トルシエのグループに入っていなかった。99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝やシドニー五輪1次予選でチームの和がある程度出来上がったところに呼ばれたから、多少は居心地の悪さもあっただろう。そこで「フラット3の理解度が低い」とトルシエに容赦なく怒鳴りつけられたのだから、松田が激怒するのも分かる。ただ、99年秋の五輪最終予選直前の韓国から勝手に帰国してしまったのは驚かされた。チームの規律を乱すことはよくないが、そんな破天荒なことができる選手も滅多にいない。トルシエも「私の若い頃に似ていた」と語っているようだが、感情をむき出しにするところは確かに似ていた。そこが彼の魅力でもあった。

こんな事件があったにもかかわらず、実力で指揮官を認めさせ、右DFとしてシドニー五輪、2002年日韓ワールドカップに出場したのはさすが。高さ・強さ・速さに加え、勇敢さや闘争心を兼ね備えたDFが彼をおいて他にはいなかったからだ。2002年大会の時も、フラット3の上げ下げにこだわりすぎて初戦・ベルギー戦で同点に追いつかれた後、「俺らは戦術に縛られすぎている」と口火を切ったのも彼だった。宮本は「葛城北の丸の風呂でみんなで話し合って、少しディフェンスラインを下げることにした」と話したことがあったが、大胆不敵な松田が言い出さなければ、宮本も中田浩二(鹿島)も思い切った決断はできなかったはず。自国開催のワールドカップベスト16の快挙は、松田なくしてはありえなかったのだ。

あの頃の松田は少し人見知りだった。慣れているマリノス番の記者には友達のように話すのに、私のように代表でしか会わない記者には「DFの話? ツネに聞いて」とそっけなくすることもあった。それでもなぜか憎めない。ピッチ上でのスケールの大きさとヤンチャな言動のアンバランスさに惹きつけられたからかもしれない。

その松田が我が故郷の松本山雅に移籍してきたことで、今年はたびたび取材させてもらった。34歳になって精神的にも落ち着いたように感じられることが多かった。記憶に濃いのは4月30日の信州ダービー・長野パルセイロ戦で劇的な逆転勝利の後「初戦の秋田に負けたのが自分のせいだと思ってた。その重圧がすごくあったんで勝ててよかった。松本の人たちはホントに暖かい。俺、ここにに来てよかった」と爽やかな笑顔を見せたこと。キャプテンの須藤右介や長野県上松町出身の今井昌太らも「マツさんがいるだけで安心感がある」と絶大な信頼を寄せていた。この頃はまだJFLのレベルやチームのやり方に戸惑っていたが、試合をこなすごとに存在感を増し、攻守両面で結果を残せるようになってきていた。その矢先の出来事だけに、本人の無念はいかばかりか……。松田が松本山雅の3番のユニフォームを着てプレーすることがもうないなんて、今も信じられない。

志半ばにして倒れた偉大なDFのためにも、松本山雅には結果が求められる。今週末の首位・SAGAWA SHIGAとの決戦から連勝しなければJ2昇格はない。大黒柱を失ったチームにはハードルの高いことだが、何としてもやってもらわなければならない。同時に日本サッカー界全体が彼の情熱を忘れずに前進していく必要がある。我々メディアも同じだ。

彼のご冥福を謹んでお祈りしたい。

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元川 悦子
もとかわえつこ1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、94年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。ワールドカップは94年アメリカ大会から4回連続で現地取材した。中村俊輔らシドニー世代も10年以上見続けている。そして最近は「日本代表ウォッチャー」として練習から試合まで欠かさず取材している。著書に「U-22」(小学館)「初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅」(NHK出版)ほか。