今年も6月17〜18日に決勝レースが行われるル・マン24時間耐久レース。今大会で85回を重ねる長い歴史の中で繰り返されたテクノロジーの進化と挑戦の日々が再び激突する。栄冠を手にするのは果たしてどのチームか。ル・マンを知る12人の男達がその深淵な戦いの歴史と魅力を紡ぐ。最終章は1998年大会に日産で表彰台に上り、現役時代「日本一速い男」と呼ばれた星野一義が語る(前編)。

ARCHIVE
きっかけは「スティーヴ・マックィーン」/関谷正徳(前編)
マクラーレンで走ったワケ/関谷正徳(後編)
初参戦のオーディション/荒聖治(前編)
総合優勝のポイントとは/荒聖治(後編)
「朝日に相当感動して、涙が出そうなくらいだった」/近藤真彦(前編)
「戦いに行く、それが僕にとってのル・マン」/近藤真彦(後編)
「行った人しかわからない特殊な空気がある」/片山右京(前編)
「ル・マンの魅力は、老後になってからわかる」/片山右京(後編)
「僕はモータースポーツは世の中でいちばん素晴らしいスポーツだと思っている」/高橋国光(前編)
「その『一瞬』の積み重ねが『人生』なんですよ」/高橋国光(後編)
「スティーブ・マックイーンになりきってた」/鈴木亜久里(前編)
「ル・マンでのことは、今だからおもしろいって言える」/鈴木亜久里(後編)
「国さんがいなければ、ル・マンに行けなかった」/土屋圭市(前編)
「ル・マンは、行けるだけで幸せ」/土屋圭市(後編)
「現地の人に愛されている歴史が詰まった大会」/寺田陽次郎(前編)
「簡単に勝つことができない難しいレース」/寺田陽次郎(後編)
「日産にはありがとうと言いたい」/星野一義(前編)
「レースをやっていなかったら、日本はここまで技術大国になっていなかった」/星野一義(後編)

「ル・マンでは本当に多くのものを獲得することができた」

——初めて『ル・マン』という存在を知ったのはいつ頃でしょうか?
星野:中学生くらいの頃からかな。オートバイの世界にのめり込むと同時に、スティーブ・マックイーンの映画『栄光のル・マン』を観たりして、その頃から『ル・マン』という名前を良く知っていたよ。それくらいル・マンというのは、世界でも最も権威があって、歴史もあって、週末に30〜40万という人が来るというレースだとは知っていたんだ。だから、若い頃からずっと『出たい』と思っていた。日産にはその夢を叶えてもらったかたちだよね。

——初めて出場されたのは日産の初出場とともに、1986年(日産R86V)。当時NISMOの社長となられた難波靖治さんの号令だったとうかがっています。
星野:そう。でも当時は、マシンもずっとトラブル続きで、すごく大変だったんだ。最終的には(1998年に)3位という結果を残せたのが最高だったけど、ずっとル・マンで優勝することを夢見ていたよね。初めてサルト・サーキットを走ったときは、もう日本では考えられないくらい。一般の公道を使って走るんだけど、フランスの警察が来て、簡単に公道の部分を通行止めにしてしまう。でも、ル・マンの市民は怒るどころか歓迎していて、ル・マンという街全体が一週間、レースを楽しもうとするんだよね。あの文化を作るのは、日本ではちょっと無理かもしれないかなぁ……。レースへの理解度がやっぱりちょっと違うんじゃないかな。日本ではマラソンならすぐ通行止めにするけどね(笑)。日本が歴史を積んでも難しいかもしれない。レースに対する考え方が違うと思ったよ。

——グループCの時代は1986年から1990年まで連続で出られて、その後スカイラインGT−Rの挑戦(95〜96年)、そしてR390 GT1で挑戦(97〜98年)されました。思い出に残っているのはどの時代でしょう?
星野:やはりいちばん印象に残っているのは、最後に立った1998年の3位表彰台だよね。R390 GT1で(鈴木)亜久里と影山(正彦)で表彰台に立った。その後日産はル・マンを撤退してしまうんだけど、あと数年、優勝するまでやりたいという思いと、企業の方針に従わなきゃいけない思いがあったよね。とは言え、9回も挑戦することができたんだから、日産にはありがとうと言いたいよ。

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