このところ、このコラムでは2回にわたってレフェリーのことについて書いてきた。「ついで」と言っては何だが、もう1つ最近レフェリーについて気になっていることがあったので、書きとめておきたい。
というのは、例の「人種差別発言」問題だ。
ご承知の通り、事件は7月22日のJ2リーグ代表29節、東京ヴェルディ対ヴァンフォーレ甲府の試合で起こった。だいぶ昔のことになるし、この試合については東京Vの大黒将志のプレーについてこのコラムにも書いたのだが、「人種差別発言」問題はまだくすぶっているようなので、あえてもう一度取り上げてみよう。試合は甲府が先制し、東京Vがいったんは追いつき、そのまま引き分けかと思われたが、89分に甲府の大西容平が右クロスを頭で叩き込んで勝ち越した。全体としてみれば、甲府の攻撃が光った試合だった。
ところが、試合が終わって、両チームの選手がセンターサークル内に集まったときに事件が起きた。最初は敗れた東京Vの選手たちが審判の判定について文句を言っているように見えた。よくある光景だ。ところが、急に東京Vのレアンドロが激高した。そして、レフェリーの牧野明久さんがレアンドロに対してイエローカードを示したのだ。
スタンドから見ていても、もちろん、何を揉めているのかさっぱり分からなかったが、試合後の記者経験で東京Vの高木琢也監督が質問を受けて(あくまでも、質問に対する答えとして)、「差別語を言われた」と明かしたのだ。そして、「それをジャッジしなかったレフェリーに怒りを感じる」との趣旨の言葉を残した。その後の取材でレアンドロは「チンパンジー」と言われたと言っていることが明らかになり、Jリーグも調査を行ったが、事実関係は明らかにはならなかった。要するに、その言葉をはっきり聞いたという証言が出てこなかったわけだ。
言葉の暴力の問題点は、映像を再生しても、選手を医学的に診察しても、証拠がつかめないこと。マテラッツィのように言った本人が(自慢げに)自白してくれればいいし、周囲でそれをはっきり聞いた人物がいれば処分の根拠とはなるだろう。しかし、誰もそれを証言、証明できないとすれば、処分のしようもない。
もちろん、レフェリーの牧野さんも発言を聞いていないわけだが、これは仕方がない。ピッチ上での選手の発言が全部レフェリーの耳に入るはずもない。たまたま、近くにいて、それを耳にしていれば、牧野さんは即刻カードを出しただろうし、Jリーグの調査でもそれを証言できる(レフェリーの証言ならば、両チームの選手の証言より、はるかに信憑性は高いことになる)。
僕が不思議に思っているのは、レアンドロにイエローカードを出した後の審判団の行動である。
審判団は、イエローカードを出してから、揉め続けている選手たちをなだめるような感じだったが、しばらくすると選手たちから離れてメインスタンドに引き上げてきたのである。まだセンターサークル付近で揉め続けている選手たちに背を向けてである。途中で、立ち止まった審判団は、一度選手たちの方に向き直って様子を見ていたが、やがて再び選手たちに背を向けて本当に引き上げてしまったのだ。
レフェリーは、タイムアップの笛を吹いても、まだ仕事が終わったわけではない。試合終了後でも、警告や退場に処するべき事態が起これば、カードを出さなければならない。実際、この試合でも、試合終了後に牧野さんはレアンドロにイエローカードを出しているわけだ。だが、その後もレアンドロは興奮していたのだ。東京Vの控えのGK高木義成がレアンドロを抱きかかえて力ずくで止めたから良かったものの、そうでなかったら、レアンドロは相手選手を殴っていたかもしれない(これは、高木のファインプレーである)。
もし、選手たちに背を向けている間にレアンドロが本当に相手を殴ってしまっていたら、審判団はどうするつもりだったのだろうか?
僕は、スタンドでこの光景を眺めているときには、揉めている原因がジャッジについての抗議なのだろうと思っていたから、「レフェリーはその場を離れることで事態を沈静化させようとしているのだろう」と思っていた。だが、実際にそうであっても、離れた場所にいても、レフェリーは事態の推移を見守る必要があったのではないだろうか?試合に関しての、最高の責任を持つはずのレフェリーがこういう不可解な行動を取ったのには、「いざとなったらマッチコミッショナーが決めてくれる」と思っていたからなのかもしれない(これは、牧野さんに取材したわけではない。まったくの僕の推測である)。
しかし、マッチコミッショナーというのは、試合の運営全般を評価してリーグや協会にそれを報告するのが任務なのであって、試合に関する決定権(と責任)はあくまでもレフェリーにあるのではないだろうか?
その決定が正しかったか否か、紛糾が生じた場合には、もちろんマッチコミッショナーの意見も含めて検討されて最終的な処分が決まるが、その場での決定はあくまでもレフェリーによって行われるべきものだし、出場停止処分などの決定がマッチコミッショナーの意見で覆ることはあっても、レフェリーがいったんゴールと決定したら、たとえ、その前に攻撃側に反則があったとしても、ゴールの判定は取り消されない。レフェリーが選手を退場させてしまったら、たとえそれが誤審(たとえば人違い)であっても、その選手を復帰させて試合をやり直すこともできない。
日本では、場内アナウンスで審判団紹介のときに最初にマッチコミッショナーの名前が告げられることが多いから、マッチコミッショナーが審判団のボスであるような錯覚をしている人も多いかもしれないが、マッチコミッショナーというのは審判ではないのである。
もともと、大昔のサッカーのルールでは「アンパイア」という審判が置かれていた時代があるが、アンパイアの判定に疑義が生じた場合にタッチラインの外にいる役員にお伺いを立てるようになった。そのうち、そのお伺いを受けていた役員が自分で笛を持ってピッチの中に入ってきたのがレフェリーなのだ(「レフェリー」という言葉は「お伺いを受ける人」という英語である)。だから、レフェリーがマッチコミッショナーにお伺いを立ててしまったら、歴史が100年以上前に戻ってしまうということになる。
もちろん、あの試合で牧野さんが最後まで選手のそばにいたとしても、「人種差別発言」があったかどうか分からなかっただろう。しかし、レフェリーがそこにいれば、多少とも「真相」に近づけた可能性はある。
後藤 健生
1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授


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